11.江戸の中心と東京の中心 ―東京駅をはさんで対峙する日本橋と丸の内―
JR東京駅を境にして、皇居の側に千代田区の丸の内・大手町、反対の東側に中央区の八重洲・京橋・日本橋がある。
「日本橋」は、駅前の八重洲通りの北側から順に3丁目、高島屋日本橋店のある2丁目、5年前まで東急日本橋店があり、現在は2004年4月オープンの「COREDO日本橋」の入る「日本橋1丁目ビルディング」(写真(1))がある1丁目と続く。地名の由来である「日本橋」(写真(2))や三越日本橋本店、その隣の2004年10月にオープンした三越日本橋本店新館は「日本橋室町」にあるが、勿論ここも「日本橋」だ。地元企業の協賛によって2004年3月から運行されている無料バス「メトロリンク日本橋」(写真(3))は、ここを巡回している。
日本橋1丁目から日本橋を渡った所に、1904年に日本初の百貨店に生まれ変わった三越本店(前身は、1673年に伊勢松坂の商人で「三井家の家祖」三井高利が創業した呉服店「越後屋」)がある。三越に隣接している三井本館や中央三井信託銀行をはじめ、三井関連の建物が立ち並ぶ。2005年7月には、超高層の複合ビル「日本橋三井タワー」も竣工する。日本橋は、三越を含む三井グループ(旧三井財閥)の本拠地なのだ。
江戸時代に五街道の起点として定められた日本橋は、多くの商人や職人が集住し、「商業と町人文化の中心地」として栄えた。明治以降も東京と日本の商業・金融の中心地であり続けたが、高度成長期以降、新宿・渋谷・池袋などの繁華街が成長するのに伴って、地盤沈下が進んでいった。そして、これに追い打ちをかけたのが丸の内であった。
丸の内は、三菱グループ(旧三菱財閥)各社の本社ビルが圧倒的に多く、昔も今も歴然とした「三菱村」である。江戸時代は御城内に位置し、譜代大名や旗本の屋敷が立ち並ぶ一際格の高いエリアだった。土佐の下級武士出身の岩崎弥太郎によって築かれた三菱は、後に練兵場跡地となったここを明治政府から手に入れ、東京の「経済/ビジネスの中心地」に育て上げた。しかし、皇居の前に位置するため、建物の高さを制限し、商業集積も排除して「静謐な空気」を作り出してきた。その結果、丸の内はこれまで、土日には人影もまばらになる、三菱系大企業の業務機能に特化した一大オフィス街であったのだ。
だが、2002年9月の丸ビルのリニューアルを画期に、2004年9月にオープンした「丸の内オアゾ」や「丸の内MY PLAZA」など、オフィスの他にショップやレストランなどの商業施設が充実した超高層の複合ビルの建設ラッシュが続いている。丸の内は、平日も休日も人(客)を集める「商業の街」としても急成長を遂げ、隣接する日本橋にとって最強のライバルとなったのである。
同じ財閥でも商人を祖とする「三井」と、武士を祖とする「三菱」。江戸時代には「城下」一の繁華街であった日本橋と、「城内」に位置し幕府高官の屋敷地だった丸の内。町人層が中心となって江戸期から栄えた「商業の中心地」日本橋と、「政と皇の中心地」の眼前に位置し、明治の中頃から「ビジネスの中心地」として整備された丸の内。この明確に性格を異にする基本的な構図は、20世紀末頃まで頑なに維持されてきた。だが、丸の内の「変質」によって、両者の向かう方向には差がなくなってしまうのだろうか?
日本橋には、三越本店のような店舗別で日本一の売上高を誇る巨大な百貨店から、室一仲通り商店街(写真(4))のように江戸期からの老舗も含む小さな商店まで、多様な店が軒を連ねている。400年という「町(まちうち)」に堆積する歴史の厚みが、丸の内とは随分と違う。土地の所有関係も複雑に入り組んでいるので、再開発にも時間と労力と費用と知恵が余計にかかるはずだ。丸の内が住む人のほとんどいない「街」だとすれば、日本橋には「町人のまち」の息づかいが今でも流れており、両者の地域性は依然として根本的に異なっている。
「日本橋」は、駅前の八重洲通りの北側から順に3丁目、高島屋日本橋店のある2丁目、5年前まで東急日本橋店があり、現在は2004年4月オープンの「COREDO日本橋」の入る「日本橋1丁目ビルディング」(写真(1))がある1丁目と続く。地名の由来である「日本橋」(写真(2))や三越日本橋本店、その隣の2004年10月にオープンした三越日本橋本店新館は「日本橋室町」にあるが、勿論ここも「日本橋」だ。地元企業の協賛によって2004年3月から運行されている無料バス「メトロリンク日本橋」(写真(3))は、ここを巡回している。
日本橋1丁目から日本橋を渡った所に、1904年に日本初の百貨店に生まれ変わった三越本店(前身は、1673年に伊勢松坂の商人で「三井家の家祖」三井高利が創業した呉服店「越後屋」)がある。三越に隣接している三井本館や中央三井信託銀行をはじめ、三井関連の建物が立ち並ぶ。2005年7月には、超高層の複合ビル「日本橋三井タワー」も竣工する。日本橋は、三越を含む三井グループ(旧三井財閥)の本拠地なのだ。
江戸時代に五街道の起点として定められた日本橋は、多くの商人や職人が集住し、「商業と町人文化の中心地」として栄えた。明治以降も東京と日本の商業・金融の中心地であり続けたが、高度成長期以降、新宿・渋谷・池袋などの繁華街が成長するのに伴って、地盤沈下が進んでいった。そして、これに追い打ちをかけたのが丸の内であった。
丸の内は、三菱グループ(旧三菱財閥)各社の本社ビルが圧倒的に多く、昔も今も歴然とした「三菱村」である。江戸時代は御城内に位置し、譜代大名や旗本の屋敷が立ち並ぶ一際格の高いエリアだった。土佐の下級武士出身の岩崎弥太郎によって築かれた三菱は、後に練兵場跡地となったここを明治政府から手に入れ、東京の「経済/ビジネスの中心地」に育て上げた。しかし、皇居の前に位置するため、建物の高さを制限し、商業集積も排除して「静謐な空気」を作り出してきた。その結果、丸の内はこれまで、土日には人影もまばらになる、三菱系大企業の業務機能に特化した一大オフィス街であったのだ。
だが、2002年9月の丸ビルのリニューアルを画期に、2004年9月にオープンした「丸の内オアゾ」や「丸の内MY PLAZA」など、オフィスの他にショップやレストランなどの商業施設が充実した超高層の複合ビルの建設ラッシュが続いている。丸の内は、平日も休日も人(客)を集める「商業の街」としても急成長を遂げ、隣接する日本橋にとって最強のライバルとなったのである。
同じ財閥でも商人を祖とする「三井」と、武士を祖とする「三菱」。江戸時代には「城下」一の繁華街であった日本橋と、「城内」に位置し幕府高官の屋敷地だった丸の内。町人層が中心となって江戸期から栄えた「商業の中心地」日本橋と、「政と皇の中心地」の眼前に位置し、明治の中頃から「ビジネスの中心地」として整備された丸の内。この明確に性格を異にする基本的な構図は、20世紀末頃まで頑なに維持されてきた。だが、丸の内の「変質」によって、両者の向かう方向には差がなくなってしまうのだろうか?
日本橋には、三越本店のような店舗別で日本一の売上高を誇る巨大な百貨店から、室一仲通り商店街(写真(4))のように江戸期からの老舗も含む小さな商店まで、多様な店が軒を連ねている。400年という「町(まちうち)」に堆積する歴史の厚みが、丸の内とは随分と違う。土地の所有関係も複雑に入り組んでいるので、再開発にも時間と労力と費用と知恵が余計にかかるはずだ。丸の内が住む人のほとんどいない「街」だとすれば、日本橋には「町人のまち」の息づかいが今でも流れており、両者の地域性は依然として根本的に異なっている。
写真撮影者:(1)日本大学4年 望月亜希子 (2)日本大学4年 梶山剛志 (3)日本大学4年 田中裕美子 (4)日本大学4年 坪田京子
(1):2004年7月28日(水)14時頃 日本橋1丁目ビルディング(中央区日本橋1丁目)にて撮影
(2):2004年9月8日(水)12時半頃 日本橋の手前(中央区日本橋1丁目)にて撮影
(3):2004年6月1日(木)16時半頃 メトロリンクバス発着所(中央区八重洲1丁目)にて撮影
(4):2004年7月11日(日)17時頃 室一仲通り商店街(中央区日本橋室町1丁目)にて撮影
(1):2004年7月28日(水)14時頃 日本橋1丁目ビルディング(中央区日本橋1丁目)にて撮影
(2):2004年9月8日(水)12時半頃 日本橋の手前(中央区日本橋1丁目)にて撮影
(3):2004年6月1日(木)16時半頃 メトロリンクバス発着所(中央区八重洲1丁目)にて撮影
(4):2004年7月11日(日)17時頃 室一仲通り商店街(中央区日本橋室町1丁目)にて撮影
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