17.「東京人」にとっての大震災と原発事故 ―希望としての災害エンパワーメント―

 2011年3月11日(金)午後2時46分、宮城県牡鹿半島の沖合で観測史上世界第4番目となるマグニチュード9.0の地震が発生した。後に「東日本大震災」と名付けられたこの地震は、東北を中心とする太平洋湾岸部に壊滅的な打撃を与え、1万5833人の命を奪った。死因の92.5%が大津波による水死とされ、他に行方不明者が3671人を数える(死者・行方不明者数は全国の11月4日、死因は東北3県の4月11日現在の警察庁発表による)。
 そして大震災は、「福島第一原子力発電所事故」の誘因にもなった。地震と津波によって電源喪失状態に陥り原子炉が損傷してメルトダウン(炉心溶融)に至り、3月12日に1号機、3月14日には3号機で水素爆発が引き起こされた。世界中を震撼させた1986年のチェルノブイリ原発事故に匹敵する世界最大級で最悪の事故であり、原子力発電所の「安全・低コスト神話」が音を立てて崩れ落ちたばかりか、大量の放射性物質の放出・拡散は現在も進行中であり、私たちは深刻な事態の中で日々の生活を送っている。
 今日までを3つの時期に分けて、大震災・原発事故と「東京と東京人」の軌跡を追う。

第1期(震災直後) ―被災地・被災者としての「東京」と「東京人」―

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 震源から数百キロ離れた東京圏でも、被害は決して小さくはなかった。茨城県24人、千葉県20人、東京都7人、神奈川県4人という死者数が、それを物語る。あちこちで、建物の崩壊や火災、液状化現象、地盤沈下などが起こり、ライフラインが寸断されて大混乱に陥った。とりわけ鉄道がほぼ全面ストップしたことにより、震災の当日中に自宅に帰れなかった人(=「帰宅困難者」)が、1都4県(東京・ 神奈川・埼玉・千葉・茨城)で515万人(福岡県の人口規模に匹敵)、東京都だけで352万人(横浜市の人口規模に匹敵)にものぼった(内閣府と東京都が11月22日に公表した推計値による)。
 混乱は続いた。写真1.は、3日後の3月14日(月)の品川区内にあるドラッグストアの陳列棚である。「カロリーメイト」「バランスパワー」「大豆バー」「クリーム玄米ブラン」などといった補助食品が、全て売り切れている。物流網が細くなったことに加えて、多くの人々が食料品や日用品の買いだめ・買い占め・買い漁りに走った結果であった。
 3月14日は、原発事故などに伴う電力供給力の大幅ダウンによる大規模停電を回避するために採られた「計画(輪番)停電」の初日でもあった。写真2.は、午後7時頃のJR新宿駅の様子を写したものであり、入場規制を受けた人々が西口の外まで大行列を作っている。この時、新宿駅ではJR線で山手線と中央線がダイヤを乱しながらも運行、私鉄各線では全線運休または区間運休が行われ、帰宅する人々がJRに集中した。
 計画停電は3月28日(月)に終わったが、この頃までは確実に、「東京」も大震災の被災地であり、「東京人」も被災者として認識されていたと言って良い。当初、「東北沖大地震」「東北・関東大震災」「宮城・茨城沖大地震」「東日本大震災」等々とマチマチに呼ばれていた名称を、日本政府が「東日本大震災」にすると公式に決めたのは4月1日であった。これは、「東京」が「被災地」として公認されたことを意味する。
写真撮影者:1.日本大学4年 金子清美 2.日本大学3年 井野峻佑
1.2011年3月14日(月)16時12分 2.2011年3月14日(月)19時05分
1.クスリのカツマタ武蔵小山店(品川区荏原3丁目)にて
2.JR新宿駅西口前(新宿区西新宿1丁目)にて撮影

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1.クスリのカツマタ武蔵小山店(品川区荏原3丁目)

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2.JR新宿駅西口前(新宿区西新宿1丁目)

第2期(4月以降) ―我慢し応援する「東京人」―

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 4月、新年度、入学・入社シーズンを迎え、人々は、少しずつだが平常心を取り戻すようになっていった。TVで大量にかつ繰り返し流されていたACジャパンのCMも、4月に入ると大幅に減少した。しかしながら、岩手・宮城・福島の東北3県を中心とする被災地では復旧・復興が一向に進まず、避難所生活者も発災後1ヶ月経った時点でも15万人弱おり(警察庁調べ)、「東京」との落差は拡大するばかりだった。
 マス・メディアでは連日、被災地・被災者の応援キャンペーンが張られ、現地で震災ボランティアが活躍するようになり、救援・支援活動も活発になった。写真3.は、TBSが赤坂サカスでGWや夏休みを中心に開催した被災地復興支援フェアの模様である。「復興アクション 食べて応援しよう!」「がんばろう!」といったメッセージの他に、「みのもんたの朝ズバッ!」の看板もチラリと見える。「前を向いて歩こう」と題する番組内のコーナーで、被災地復興の応援を展開していることに連動させている。
 5月には経済産業省が「夏期の電力受給対策」を発表し、東京電力関内では、7/1-9/22の期間中に、昨年夏期の使用最大電力比15%削減を達成するために電力使用制限が課せられた。写真4.は、新宿駅東南口にあるフラッグスビルの広告用モニターである。縦5.4m×横9.6mの大画面に「ただいま節電中です」の文字。1時間に10回(1回60秒)、CMの合間に表示され、節電効果はあまり大きくないものの「節電中」を必至にアピールしている。
 こうして、政府の政策や節電キャンペーンが奏功して、人々の中に節電意識と節電志向が高まったが、他方で、震災からいち早く立ち直った「東京人」はより重篤な被災地・被災者を「応援」する側にいつのまにかポジションを切り替えていった。非当事者・傍観者・第三者として、高みからまなざしを向ける立ち位置に自らをシフトさせたのである。
写真撮影者:3.日本大学4年 米田愛恵 4.日本大学4年 泉山宗志
3.2011年6月5日(日)16時35分 4 2011年7月29日(金)13時35分
3.TBS前のサカス広場(港区赤坂5丁目)にて 
4.フラッグスビル(新宿区新宿3丁目)にて撮影

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3.TBS前のサカス広場(港区赤坂5丁目)

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4.フラッグスビル(新宿区新宿3丁目)

第3期(脱原発志向の高揚期) ―被曝者としての「東京人」―

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 深刻な原発事故が発生して以降、各地で反・脱原発集会やデモが散発的に行われた。そうした動きは、TwitterやFacebookなどのSNSで原発事故や放射能汚染の実態と共に流され、拡散され、相互に連携しながら、少しずつ「うねり」が形成されていった。東京圏の各地でも放射線量が高いホットスポットが次々に「発見」され、「東京」もまた原発震災の被災地であると徐々に受け止められるようになっていったことも、背景にある。対岸の火事ではなく、当事者として自己認識せざるを得ない事態が深まりを見せたのである。
 こうした中、人々の対応は大きく分かれる。1つは、写真5.の「上を向いて がんばろう 日本」である。墨田区押上で建設が進む東京スカイツリー(2012年5月開業予定)の併設商業施設「東京ソラマチ」に5月末から掲げられている縦3m×横25mの横断幕だ。スカイツリーを見上げ(=深刻な現実から目を背け)て、「がんばろう」と自らを鼓舞することで、何とか平穏を保とうとする防衛機制を働かせる。
 2つは、写真6.の「節電しないと停電 ウソー」である。6月11日(土)に新宿で行われた「原発やめろデモ」の一場面だ。中央公園を出発し、最後はアルタ前に2万人(主催者発表)が集結して反・脱原発の気勢を上げた。集会では、社会学者の小熊英二氏もアピールに立った。また、9月19日(月)には、作家の大江健三郎氏らが呼びかけ明治公園で「さよなら原発5万人集会」が開催された。6万人が参加し(主催者発表)、TVや新聞でも大きく取り上げられ、反響を呼んだ。後藤ゼミでは、参加者にアンケート用紙を配布し、88人から回答を得たが、集会のことをSNSで知って参加した人が46人、3.11以降に脱・反原発を志向するようになった人が36人いた。皆、「原発いらない」という意志を明確に表明している。日頃、声高に主張しない人々も声を上げ始めた。地殻変動が静かに進行している。
写真撮影者:5.日本大学4年 市川慧 6.日本大学4年 上村哲平
5.2011年7月24日(日)18時43分 6.2011年6月11日(土)16時24分
 5.東京ソラマチ(墨田区押上1丁目)にて
6.新宿大ガード西交差点付近(新宿区西新宿1丁目)にて撮影

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5.東京ソラマチ(墨田区押上1丁目)

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6.新宿大ガード西交差点付近(新宿区西新宿1丁目)

まとめ(1) ―浮上する「東京」と「東京人」の加害者性―

 電力を大量に浪費する大都市「東京」の経済・社会システム、国策としての原発推進と安全神話、原発の非大都市圏への集中的な立地(=押しつけ)、地方の諸資源を収奪し統治下に置く政治(的な意志決定の)構造は、飽くなき効率性・利便性を追究する「東京人」の生活様式を支える基盤である。「東京」がモノ・ヒト・カネ・情報及び意志を一極集中させ、「東京人」に日本で一番便利で快適な生活を享受させ、それを原発が下支えしてきた。大震災と原発事故を切っ掛けとして浮かび上がったのは、そうした「東京」と「東京人」の加害者性である。同時に、日本人全員が、大震災の、原発事故の被害者であると同時に、地球環境と次世代の子供達に対する加害者になっていることも忘れてはならない。
 であれば、上を向くのでも、下を向くのでもなく、前をしっかりと見据えて、旧来の社会のあり方や生き方を問い直し、新しい社会と生き方を構想し、大胆に転換を図ることが求められるだろう。それなくしては、私たちの未来は切り開かれない。

まとめ(2) ―希望としての災害エンパワーメント―

 未曾有の大災害・大事故による極めて深刻な事態にさらされているからこそ、私たちは、それを乗り越える力を内在化できる。試練が人を鍛え、知恵と勇気を与え、新たな社会を創造していく力をみなぎらせていく。
 社会学的な観点に立って、私たちはこれを「災害エンパワーメント」と呼ぼう。大震災と原発事故を奇貨として、状況を変革する力が人々に付与されることを意味する。未来への希望の光である。

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