『学叢』第65号(日本大学文理学部、2000年3月発行)所収
研究室訪問この人に聞く−−後藤範章先生

 訪問日  1999123
 
聞き手 社会学科4年 船山健介(後藤ゼミ・1999年度ゼミ長)・原田たか子(同・副ゼミ長)

 

 ごとう・のりあき  社会学科助教授。1956年長野県飯田市生まれ、茨城・群馬・埼玉県育ち。日本大学文理学部社会学科卒業、日本大学大学院社会学専攻博士課程修了。都市社会学・地域社会学・社会調査論専攻。主著:『社会調査へのアプローチ』(共編著、ミネルヴァ書房、1999)、Tradition and Change in the Asian Family(共著、East-West Center1994)ほか。

 

 

    弱い部分も赤裸々に

 ――今日は、先生が歩んでこられた道のり、教育・研究活動のことや学生への思い、これからの抱負などについてお話しいただければ、と思います。
  人生の行方定まらない学生の皆さんに少しでも参考になればと考え、日頃は表に出さない弱い部分、失敗や挫折経験もさらけ出して、できるだけリアルに話しましょう。

     能天気な人間だった

 ――高校時代は考古学をおやりになっていたそうですが、もうその頃から学問への興味や関心があったのですか?
 考古学との出会いをお話しするためには、受験エリートになれなかったことに触れておかないといけません。今からもう30年近く前の話になりますが、ぼくの出身高校*1は、そこそこの歴史も伝統もある進学校ではあったのだけれど、受験可能な広域学区で見ると二番手校でした。中学の時、トップ校*2に手が届くかどうかのボーダーラインあたりにいたのに、早々に競争から降りてしまって、安全で楽な道を選択してしまったんです。自分の存在と可能性をかけて勝負する前にあっさり逃げてしまった。時間とエネルギーを費やして何事かをコツコツとやり遂げる努力もせず、結局は途中で投げ出してしまう。そのくせ、それを重く受け止めないばかりか、可能性だけは人一倍あると信じて疑わない、そんな能天気な人間だったのです。

 *1 埼玉県立本庄高校。群馬県からの越境入学だった。
              *2 群馬県立高崎高校や埼玉県立熊谷高校がそれにあたる。

     泥と汗にまみれて

 だから、考古学をやるようになったのも、自分の興味や適性を考えてのことではありません。高校に「考古学部」があったんですが、クラブ活動の説明会の時、楽ができると思えたので入部したわけ。ところが、これが大違いで、入部早々から日曜日には古墳群の発掘調査にかり出され、夏休みには発掘現場近くに合宿して炎天下で毎日発掘作業を続け、冬場から春先にかけては埋蔵文化財の分布調査や前方後円墳の測量 調査。平日には勉強会とか、土器片や埴輪片の整理・・・・。土日も夏休みなどの長期の休みもほとんどなく、調査に明け暮れる毎日でした。勿論、クラブ活動だから無償で。泥と汗にまみれながら、かなり本格的な調査研究活動にあたったわけです。
 
     学問への志の芽生え

 それもそのはずで、顧問は大学で考古学を専攻した人で、上級生も皆考古学(史学科)志望、卒業生も大学で考古学を学び、大学院に進んだり、教員になったり、自治体で文化財行政に関わっている人が多かった。しんどい環境だったためか、最初30名ほどいた仲間(1年生)は1年後にたった6名。それまでのぼくならとうに辞めていただろうに、不思議なことに残り、結局部活動には高校卒業後まで関わり続けることになりました。
 今振り返ると、そこで出会った人間味あふれ、学問的な刺激を与え続けてくれた多くの人たちと、実証的な研究活動の積み重ねが、その後の人生のターニングポイントとなったことは間違いありません。研究することによって「不思議」や「疑問」を解き明かすことの面白さと醍醐味を味わい、学問(研究者)の道に進みたいという思いが次第に強くなっていったのです。

     目からうろこが落ち続け

  ――じゃあ、勉強もそれなりにまじめにやるようになったのですか?
 学問への志を抱くようになったのだから、そう思うよね。ところが、これが違うんだ。好きないくつかの教科を除くと、授業はほとんど上の空で、いつも部活動のことに思いを馳せているか、教師の目を盗んで本を読んでいるか・・・・。だから学業面 ではまともな生徒じゃなくて、成績もおそらく下から数えた方がずっと早かった。かといって特に引け目を感じたこともなく、いっぱしの研究者気分。
 その上、岩波新書などによって目からうろこが落ち続け*3(いかに世の中のことを知らなかったのかを思い知らされた)、現代社会(日本社会)と現代人(日本人)の抱えている様々な問題性に関する関心や好奇心がメラメラと燃えていった。要するに、現実の社会に「批判のまなざし」を向けるようになり、何故そのようになってしまうのかを解き明かしたいと思うようになっていったんです。

*3 当時読んだ本の中で最も強い衝撃を受けたものに、T・K生(「世界」編集部編)『韓国からの通信』(岩波新書、1975年)と、井上清・森浩一編『歪められた古代史』(毎日新聞社、1973年)がある。前者は、朴政権が197210月に戒厳令を敷いて以降の韓国内の状況を克明に伝えたT・K氏の地下通信をまとめたもので、朴大統領の命令で日本にいた金大中氏(現在の韓国大統領)が拉致され、殺されそうになった事件のことも出てくる。後者は、「我が内なる皇国史観」を徹底的に叩きつぶしてくれた本。

     しらけと四無主義

  ――その当時はどんな時代だったのですか?
 ぼくが高校に入学したのは1972年ですから、東大や日大全共闘運動に代表される学園闘争(学生たちによる異議申し立ての一大ムーブメント)の嵐はすでに止んでいました。その後の若者は一転して「政治的無関心」に彩 られ、「しらけ世代」とか「四無主義」(無気力・無関心・無責任・無感動)などといった言葉で語られ始めていたんです。ある種退廃的な空気が漂っていて、周りの連中を見ていると、「軽薄で、流行に流され、自分というものがなくて、社会への疑問や関心が欠如していて、色恋の話に明け暮れてばかりで、なんて極楽蜻蛉なんだ」と思うようになったわけ。

     「二粒の籾」そして「心の灯」

  ――そうした社会的な関心の高まりが、考古学から社会学へ進路を変えさせたわけですね?
 それが必ずしもそうではないんです。当時の考古学部の仲間内でもっとも愛読されていたのは藤森栄一さん*4の一連の著作なんだけれど、ぼくも強い影響を受けていたんです。例えば、『森本六爾伝―弥生文化の発見史―』(河出書房新社、1973年。旧題『二粒の籾』)の最後の一節、「二粒の籾、地にこぼれ落ちたならば、ついには二粒の籾に終わらないだろう。君、――学問というものは、いや人生というものはね、そういうものなんだよ」とか、『考古学とともに―涙と笑いの奮戦記―』(講談社、1970年)の中にある「友にいってやりたい。なに、こんな迷った奴もいるんだよ。あせることも、あきらめることもないんだよ。君のその少年期につけた心の灯を消さぬように、ともしつづけていけばいいんだよ、と。疲れたら休めばいい。苦しければ中絶したって、心の灯に油を忘れさえしなければね」といったメッセージに熱くなって、勇気づけられ、励まされ、やっぱり考古学って人間くさくてロマンがあっていいな、と。

  *4 ふじもり・えいいち 1911年長野県に生まれ、1973年に亡くなられた民間の考古学者。諏訪考古学研究所長、長野県考古学会長、日本考古学協会会員。『銅鐸』『かもしかみち』『縄文農耕』『信州教育の墓標』など著作多数。新田次郎の『霧の子孫たち』の宮森栄之助のモデルでもある。

      ピカソの絵に「世紀の転換」!?

 でもその一方で、小さな疑問も感じ始めていました。その頃の考古学研究には物証第一主義的な傾向が非常に強く感じられて、物(ブツ)がなければ始まらない。方法論的に言えば人文科学というより自然科学的で、藤森さんのようなドロくささやロマンが感じられない。
 考古学に少しだけ距離感を感じ始めた頃、父の書棚にあった清水幾太郎さん*5の『現代思想』(上・下、岩波書店、1966年)を読んだんです。清水さんは後に転向して右派のイデオローグになってしまったけれど、その頃はまともで、切れ味も鋭かった。最初にいきなりピカソの「アビニヨンの娘」(1907年)を取り上げて、そこからリアリズムの否定やニヒリズムを読みとり、20世紀全体に向かっての予言的な意味を導き出したんです。よくはわからなかったけれど、衝撃的だった。社会学者が本の一番最初でピカソの絵を取り上げて世紀の転換を語る。「へー、社会学ってなんか魅力的だな」と思ったんですよ。

           *5 しみず・いくたろう 1907年生まれ、88年死去。東京大学社会学科卒。元学習院大学教授。『流言飛語』『社会学講義』『社会心理学』『論文の書き方』『オーギュスト・コント』など著作多数。

     考古学か社会学か  

  それで、考古学に進むか社会学に進むかで、揺れたんです。でも結局一本化できなかったので、2校ずつ受験したんですね、大学を。受かった方に進めばいいと考えてのことでした。
 でも、何度も言っているように、日頃から勉強らしい勉強もしてないのに、受験勉強などするはずがない。当然のことながら全滅。ショックは全くありませんでした。それどころか、内心ホッとしたんです。「ああ、これで1年かけて進路(専攻)を決められる」ってね。

     基礎演習での推薦図書

  ――ということは、浪人時代に社会学に決めたわけですね?
 そうなんです。大塚(豊島区)にあった(今はない)予備校に片道2時間以上かけて通いながら、社会学系の(社会学者や社会心理学者、民俗学者、文化人類学者などが書いた)本を面白くて随分と読んだんです。見田宗介、日高六郎、藤竹暁、松原治郎、鶴見和子、加藤秀俊、南博、祖父江孝男、中根千枝、米山俊直、梅棹忠夫といった人たちの本。専門書じゃなくてね、新書や一般書だけど。
  そうそう、ここ数年、1年生の社会学基礎演習で年間約50冊の新書・文庫を推薦して読書レポートを課しているのだけれど、その中にはその頃ぼくが読んで社会学へ進むのを決定づけたものが何点も含まれています*6。専門書との格闘もしましたね。D・リースマン(加藤秀俊訳)の『孤独な群衆』(みすず書房、1964年)。全部は読めなかったけれど、刺激的な体験だった。

            *6 日高六郎『一九六〇年五月一九日』(岩波新書、1960年)、きだみのる『にっぽん部落』(岩波新書、1967年)、宮本憲一『地域開発はこれでよいか』(岩波新書、1973年)、なだいなだ『権威と権力』(岩波新書、1974年)、藤竹暁『事件の社会学―ニュースはつくられる―』(中公新書、1975年)、中根千恵『タテ社会の人間関係―単一社会の理論 ―』(講談社現代新書、1967年)、鶴見和子『好奇心と日本人―多重構造社会の理論―』(講談社現代新書、1972年)、青井和夫『家族とは何か』(講談社現代新書、1974年)など。

      社会学が見えてきた

  それで、ぼくなりに社会学像を描いたんです。社会学とは、私たちの社会がどのように成り立っていて、またどのように変化していくのかを解き明かす学問なんだ、と。その際ぼくにとって重要に思えたのは、多くの人にとって見えていないことが、社会学によって見えるようになるということ。そして、見えないものが見えるようになることは、社会の変革を促す力になる(見えている人間が変革主体となる)ということ。
  煎じ詰めると、社会学は実証的な方法で現状分析を徹底的に行って、社会を診断し、問題点を明確にして社会の変革を方向づける、極めて実証的で実践的な学問として映ったんです。社会学を本気で勉強したいと強く思いました。

      2度目の受験

  ――先生は社会学を学びたいと強い意志を持ちつつ文理学部に入学されたわけですが、その当時のあり様はどのようなものだったのでしょうか?
 社会学系の本は沢山読んでも、受験勉強にはやはり真剣になれなかった。試験で高得点を取るためのテクニックを身につける作業に没頭することが、とても軽薄に感じて、人間の価値を貶めるように思ってしまったんです。  
  高校時代に先輩たちと取り組んだ前方後円墳の研究の成果*7を本にしたのも浪人時代でした。ほとんど毎週のように母校の部室に集まって、原稿を出し合い、議論を重ね、春も夏も合宿して、補充調査もした。そんな苦労を重ねて、ともかく19751231日に発刊できた。入試直前のことでした。

           *7 埼玉県の本庄・児玉地方とその周辺地域(群馬県を含む)の前方後円墳を、1972年から74年の足かけ3年がかりで合計15基測量 して、形態学的な研究を行った成果を、『児玉郡及び周辺地域における前方後円墳の研究』と題する報告書にまとめた(埼玉県立本庄高校考古学部編集・発行)。専門学会などでも高い評価を得たが、巻頭言の一節に顧問(菅谷浩之先生)はこう書いている。「日曜日にいつも学校に来て生徒がよく研究していますね、と時々言われたことがあるが、この経験を今後に生かして、考古学のみならず、勉学にもより頑張り、来年4月には全員がそろって大学で会えるように切に希望する」、と。

      初めての「挫折」
  
  で、2度目の入試には社会学系の大学を4校受験し、結果的に日大に入ったわけです。19764月のことです。この事実を受け止めるのに時間がかかって、日大生である自分を前にしながら、日大生である自分を認められない、という状況に追い込まれたんです。もうコンプレックスの塊になった。初めての挫折経験でした。

  ――日大は望んでいた大学ではなかったという事ですね?
 正直に言うと、入りたくはない大学だったんです。だけど二浪はできない、どこかに入らなくていけないということで、日大も受けたわけ、初めて。そしたら結果的にここしか受からないという厳しい現実の前に打ちのめされた。でも社会学に対する思いも結構膨らんでいるし、致し方なく日大に入ったんだけれど、すんなりは認められなかった、日大生である自分を・・・・。

      日大生であるということ

 でもね、しばらくしてから気づいたんです。大学に入るための地道な努力をしなかった人間に、「挫折」なんて言葉は当てはまらない。逃げてばかりいてはダメだ。現実と向かい合って、いま・ここに日大生として存在する自分をまずは認めること。その上で、お前は一体これから何をするのか/できるのか、今度こそ、自分の全存在と可能性をかけて勝負してみろ、とね。もし何事かを成就できないとしたら、それは日大生だからできないんじゃない、そのための努力を積み重ねないことにこそ原因があるのだ、と。
 そう思えるようになったのは、周りの友人たちとの関わりが大きかったですね。ぼくが思っていた以上に、いろんなタイプの個性や能力を持っている面白い学生が多くて、入学直後から刺激を受け続けたんです。今までの自分の世界が非常に狭かったことにも気がついた。各界で活躍中の日大の卒業生が多数いることを知ったのも救いになった。

     誰もが皆、人生の主人公

 いわゆる「日大コンプレックス」を感じている学生はその当時も多かったし、今だって決して少なくはないんです。だから、そうした学生たちに言いたい。鬱屈したり後ろ向きになるのではなく、「大学4年間を使って、それまでの殻を剥ぎ捨てて、自分を磨き、とことん高めていくプロジェクト」に楽しみながら真剣に取り組んでみようよ、と。人生は大学入学時に決まってしまうわけじゃない、むしろその後の4年間でどこまで個性を磨き能力を高め、成長できるかにかかっている。勿論、入学段階に歴然とある偏差値上位校の学生との基礎学力差を埋める努力もしないといけない。でも、夢を抱き志を持ち続ければ、必ずできる。
 それからね、日大生であることにはもっと積極的な意味もあるんです。日大の持つ雑多性(多様性)と雑草性(生命力)は、創造性とたくましさ/ヴァイタリティの母胎になるんです。「たかが日大、されど日大!」精神で、人生を切り拓いていってほしい。誰もが皆、人生の主人公なのだから・・・・。

      石器時代の社会学

  ――先生が社会学を学ぶ上で師と仰ぐ人はどなたでしょうか?  
  関先生と梅沢先生のお二人ですが、その前に話したいことが・・・・。
 ぼくは前に述べたような社会学像を抱いていたわけですが、文理学部に入学してから授業で教わる社会学とは大きなズレを感じました。1年生の授業ではどれもこれも社会学の歴史の話ばかり、しかもコント、スペンサー、デュルケム、ウェーバーの繰り返し。現代社会に対する現状分析もなければ、社会診断もない。「石器時代の社会学」だと思ったんです。そんなのは本を読めばわかる。新しい解釈が示されるわけでもないから、つまらない。当時のぼくの関心に応えてくれるような授業は、社会学科にはほとんどなかったんです。

      「夜明け前」の学生管理

 当時の文理学部がまたおかしくて、歪んでいた。忘れもしませんが、入学してまだ間もない5月か6月頃、授業がつまらないから自分たちで研究会を作って勉強したい、ということをクラスの副担任に相談しに行ったんです。そしたら、「そんなこと止めろ、危険だ」と言われたんです。「研究会なんて作って固い本を読んだり、難しい議論をすると目をつけられてブラックリストに載ることになるから、自重したほうがいい」、とね。
 この言葉が象徴的に示しているような異様な環境だったんです、当時は。正門も開いてなくて、学校に入るのに学生証を提示しないと入れなかったんです。学生が自主的な活動をするのに様々な制約があって、「自由」が保証されていなかった。人間として尊重されなかった。「暗黒時代」が続いていたんですね。
 「学部は日大闘争から何を学んだのだろう、これではその当時の状況と同じで、学生ばかりか教職員だって浮かばれやしない」、そう思いました。当然のことながら、学生たちの不平・不満は蓄積し、2,3年後に大衆運動となって爆発しました。文理学部に、随分と遅れた「夜明け」がようやく訪れるのです。  

      社会学研究会と自主ゼミ

 研究会ですが、「止めろ」と言われればぼくの「反骨精神」に火がつくというものです。すぐにクラスメイトに呼びかけて社会学研究会を作ったんです。1年生の時の夏休み前だったと思います。ぼくは会長になり、その後、最盛期には哲学や国文、中文の学生もいて、メンバーが30名近くにもなりました。「マルクスとウェーバー」「個人と社会」といった問題関心が強くて、12年の頃はそうしたテーマに沿った本をテキストにしてよく勉強し、議論しました。毎年必ずどこかで合宿もしましたよ。
 2年生になってからは自主ゼミを立ち上げました。梅沢孝先生*8にお願いして指導していただくことになりました。カール・マンハイム(福武直訳)の『変革期における人間と社会』(みすず書房、1962年)をテキストにして、2年間かけてじっくり丹念に読んでいきました。テキスト・クリティークですね。これは、とてもいい勉強になりました。  

            *8 うめざわ・たかし 1918年生まれ。日本大学大学院(社会学専攻)修了。元日本大学助教授、元明星大学教授。主著:『大衆の社会学―民衆的大衆論の構築―』(明星大学出版部、1987年)、『現代社会の変動論』(共編著、新評論、1981年)など。

      研究室の「遺産」を発掘

  3年生になってから、研究会ではそれまでの勉強を土台にして、いよいよ次は「現状分析」だ、ということになりました。どこを調査するか検討する中で、文理の図書館から偶然にも面白い報告書を見つけたんです。社会学研究室が1950年代中頃より1960年代初めまで、伊豆の白浜や下田を対象地として継続的に調査していて、その報告書が残されていたんです*9
 この一連の調査を貫いている問題意識は、かつて原始共産制村落などと評された白浜村落が、とりわけ伊豆急開業後の近代化の過程で、その社会構造と意識構造をどう変えていくのか、というものだった。で、報告書を読むと、面白かった。目を見張りました。「社会学史研究」が看板のようになってしまっているけれど、以前はこうした社会科学的な関心に裏打ちされた「現状分析」をしていたなんて、「灯台もと暗し」とはこういうことを言うのだな、と思ったわけです。

           *9 『伊豆白浜の村落構造』1960年、『村落社会の実態』1961年、『鉄道敷設にともなう近代化の研究』1963年、いずれも日本大学文理学部社会学研究室の編集・発行。

      伊豆白浜でのフィールドワーク

 それでこの研究室の「遺産」を利用しない手はないと考えたんです。つまり、研究室の調査時から約20年後の姿を捉えることで、変化のありようをよりクリアに描き出すことができるし、そうした継時的な調査をやらなかったら「社会変動」は分からないと考え、伊豆白浜でフィールドワークすることにした。予備調査として何度か現地に行って、関係機関や地元の有力者に挨拶回りしながら、ヒアリングしたり、史資料を集めたり、本調査をどんな規模で、いつ頃行い、宿舎をどうするかなどを詰めたり・・・・。
 その当時の社会学科では、4年次に「社会調査実習」という科目があったのですが、その「実習」の中で白浜の本調査を実施するようにしたんです。調査票を作成し、依頼状と一緒に予め郵送しておいて、6月か7月だったかな、20数名で現地へ行って泊まり込み、白浜の世帯主全員(約700名)を対象とする悉皆(全数)調査を実施したのです。調査データを集計・分析し、手書きの報告書が出来たのが確か11月頃だったかな。
 こうして調査の企画・設計から現地調査、データの集計・分析、アウトプットを出すまで、2年間をかけて全て自分たちの手で行えたことは大きな自信となりました。困難な作業を途中で放り出さずに、最後までやり遂げた、しかも制限時間内で。この経験は大きかったですね。

     その後の研究スタイルの祖型

 と同時に、この際の研究視点と手法が、その後のぼくの研究スタイルの一部を構成していくことになるとは、その時は思いもしませんでした。ぼくは、問題や事実の発見あるいは仮説発想のための調査活動と仮説の検証や理論化を志向した調査活動とを、同一のフィールドで循環的にしかも可能な限り長期間にわたって積み重ねるという循環的・継時的調査法と、他の地域との比較を重ねていく比較調査法という方針を、拠って立つべき調査のあり方と主張しているのですが*10、白浜調査で採ったのは前者の循環的・継時的調査法なんです*11

           *10 例えば、後藤範章「マルチメソッドとダイレクト・オブザベーション―リアリティへの感応力―」(『日本都市社会学会年報』第14号、日本都市社会学会、1996年)など。
                     *11 この方法による成果としては、後藤範章「山間集落における局地的小宇宙性と村落結合―山梨県旧棡原村大垣外と青森県西目屋村大秋の50年―」(日本村落研究学会編『村落社会研究』第29集、農山漁村文化協会、1993年)、後藤範章「交通インパクトの社会学的効果に関する実証的研究―埼玉県戸田市における埼京線開業後12年間の地域社会構造変動 ―」(『社会学論叢』130号、日本大学社会学会、1997年)などがある。

      目標へ向けての人生設計

  ――学部の後はそのまま大学院へ進学されたわけですね?
 はい、そうです。大学院進学はもう浪人時代に決めていたことでした。実はその頃に人生設計を次のように思い描いていました。社会学の研究者(大学の教員)になることがより高次の目標に設定されました。その実現(当面のゴール)へ向けて達成すべき課題群は、次の3つ。1. 大学の社会学部または社会学科を卒業すること。2. 大学卒業までに生涯の伴侶と出会い、学部卒業時に結婚すること。3. 大学院へ進学し、博士課程(5年間)を終えること。
 で、一番目は入学先が日大だったということで、揺らいだんですね。要するに、日大を出て大学の教員になれるのだろうかと思ったわけです。ところが、入学してから日大の先生の中に日大出身者が多いことを知ったんです。他大学にも意外と日大出身者が多い。社会学でも、結構著名な人で日大出身者が何人も。これには勇気づけられました、ほんとに。よし、これなら自分にだって可能性は大いにあるぞ、と思ったんです。

     綱渡り人生の始まり

 で、二番目。大学の研究者への道は遠く険しいから、自分のような弱い人間では、一人で苦境を乗り切ってはいけないだろう。だから、学部卒業と同時に結婚しよう、と考えたんです。飛躍と思い込みが激しいんだな。学部4年の9月だったかな、大学院の学内専攻があって、それにともかく合格できたので、それで結婚へ向けての準備に取りかかったんです。2人の間では既定の方針だったから、双方の両親を説得して(当然、反対だった)、段取りをつけて、それで、ほんとに結婚したんです、卒論を出してから。1980年の2月、23歳の時でした。  その後はご想像にお任せしますが、まあ綱渡り人生の始まりですね。お陰で平衡感覚が少しは身につきました。

     関清秀先生との出会い

  ――三番目の大学院はいかがでしたか?
 ぼくの研究領域は、学部時代から終始一貫、地域社会学(都市・農村・地域の社会学的研究)なのですが、大学院の専任の先生方でこの分野を専門としている先生がいなかったんです。ところが、マスター2年生の時に北大から関清秀先生*12が来られたんです、日大に。先生の研究は非常に幅広いんですが、ぼくの問題関心を包み込んでいて、更に幸運なことにドクターコースに進んで関先生の指導を受けられることになった。先生の存在はぼくにとっては絶大で、甚大な影響を受けています。ぼくの学問上の師であり、自分のポジションをはかる座標軸であり、研究者としてのモデル・道しるべであり、人生航路の羅針盤でもある・・・・。

            *12 せき・きよひで  1917年生まれ。東京大学社会学科卒。北海道大学名誉教授、元日本大学教授。『都市の青少年』(誠信書房、1963年)、『都市の家族』(誠信書房、1965年)、『都市の文化』(川島書店、1985年)など著作多数。

     『社会学評論』への挑戦  

  関先生の指導の方針は、「日大はある面で人間関係で微妙な部分があって難しいところのようだけれど、研究者として自立するには、内輪で評価される事を第一に考えてはいけない。外で評価される研究成果をまとめ上げることの方がはるかに重要だ。だから内に向かう関心を外に向けてしっかり研究するように」、ということでした。そして、先生は、「日本の社会学界で一番権威があり、若手の登竜門にもなっている日本社会学会の学会誌『社会学評論』に論文を発表すること」を、課題として示されたんです。
 これは正直に言って、荷が重かった。日本の社会学系学術誌の中でおそらく一番最初にレフェリー制を敷き、当時、投稿された論文が2人の匿名レフェリーの審査を何回か経て、1年数ヶ月かかってようやく掲載されるというのが平均的だったんです。とてもぼくにはそんなことできないと最初は思ったのですが、「修士論文の一部をもっと詳細に展開したら良い。内容的な面で言えば論文(上限50枚)ではなく研究ノート(上限30枚)としてもいいかもしれない」、という先生のサゼッションを得て俄然やる気になったんです。で、投稿して、何回かの書きかえの末、ドクターの3年が終わる頃に『社会学評論』に載ったんです*13。学内誌に何本か論文を発表してはいたけれど、自分ではこれが学会デビューを果たした処女論文と考えています。

            *13 後藤範章「我が国研究者における『地域社会』理解と『地域社会学』的分析の二視角」(日本社会学会編『社会学評論』第35巻第4号、有斐閣、1985年3月)

     就職浪人

  ――その後そのまま大学に残られたんですか?
 いえ、そうではないんです。大学院在学中は、就職というものを意識していなかったんです。まぁ何とかなるかなと思いながら、何ともならなかったんですね。1年間のブランクがあるんです。大学院時代からやっていた私立の女子高校・中学の非常勤講師(楽しかった!)や学習塾の講師などしながら食いつないだんですが、この年も素晴らしい人たちとの出会いや経験があった。話し始めると長くなるから、はしょりましょうね。ほんとは、1983年と85年に生まれた子どものことなども話したいんだけれど・・・・。
 それで、年が明けた1986年になって、正式なオファーが2つあったんです。一つはここに残らないかという話なんですが、助手のポストが埋まっているので副手でよければ採用したい、ということだったんですね。これには即、「お願いします」と答えました。その数日後、今度は地方のある国立大学から研究助手として迎えたいという話をもらったんです。『社会学評論』に掲載せれた研究ノートを評価してくれて、ぜひ来てほしい、と。でも、先の話の後でしたので、その場で断ってしまったんです。

     母校への就職

 その時はこのことをあまり重く受け止めなかったんですが、関先生に報告したら怒られたんです。「何で即答してしまうんだ。何でそんな大切なことを相談しなかったんだ」と。「学界で通用する研究者として歩んでいく気なら、母校に残るのは必ずしも良いとは言えない。しかも日大が副手のポストで、他大学が助手としてというのならなおさら外に出た方が良かったのではないか」、とも言われたんですね。確かにそうかも知れない、と感じました。でももう後の祭りで、結局残ることになったわけです。

     日大生を育てるということ

  それで、その際に改めて考えたんです。自分は日大に残って、何をやりたいのか、何ができるのか、何をやるべきなのか、と。で、思った。ぼくは、母校である日大のことが嫌いなんだけれど、好きなんです。愛憎相半ばするアンビヴァレントな心情なんですね・・・・。
 そうしたぼくの眼で現状分析して総合的な評価を下すと、今(その当時)の日大は学生にとっても教職員にとっても卒業生にとっても誇りを持てるような現状ではない。世間の評価もそれほど上がっているとは思えない。問題・課題が多すぎる。輝くような魅力が乏しい。とすれば、誇るに値する日大になるよう「改革」していくしかない。しかし自分には大きなことはできない。自分ができることは、日大を職場とする日大の卒業生として、後輩でもある学生たちの才能や可能性の芽を最大限に伸ばしてあげられるような教育活動を、地道に重ねていくこと。つまり、日大生を育てることこそが第一の使命なんだろうと思ったんです。
 学生は管理の対象じゃない。潜在的か顕在的かはともかく、可能性に満ちあふれた個性的な人間として(個性のない人間はいない!)、一人一人の学生を捉えることが大切なんだと思う。

     写真で語る:「東京」の社会学

  ――今進めている“写真で語る:「東京」の社会学”プロジェクト*14も、そうした考えが反映されているのですか?
 はい、学生の教育・実習用のプログラムとして発想し、開発・実践したものです。これは、「東京らしさ」や「東京人らしさ」を視覚的に捉えて(写真に収めて)データ化し、これを素材に「東京」と「東京人」を社会学的に分析してみる、というものです。まず、日大や他大学で ぼくの「地域社会学」などを受講する学生個々人が、そうした作業を行ってレポートを提出します。それらを「東京」の多元的なリアリティが刻印された質的な集合データと見なして、今度は、ゼミでセレクトした作品群を集団(集合)的に読み直して、新たに作品化していきます。
 1994年度から始め、早いもので6年間が経過しました。今でこそ調査・研究用プログラムとしての側面 も持つようになっているけれど、当初は、学生に社会的リアリティを体感してもらって、社会現象への興味・関心を高め(センズ・オブ・ワンダーを磨いて)、「社会学する」ことを実践するための方法論として構想したんです。現実の細部の中に宿っている意味や意図をくみ取り、そこからソシオロジカル・イマジネーション(社会学的想像力)を働かせて「社会」を再構成していく道筋を、学生たちが肌身を通 して感得できるプログラムとして、ね。

           *14 「東京人」観察学会(社会学科・後藤ゼミ)によって、文理学部の桜麗祭で毎年3035点の作品が展示発表され、作品数は、1994年度〜1999年度の6年間で合計185点に上っている。それらは全て、インターネット上でも公開されている。

     試行錯誤の果てに

  ただ、そこに至るまでには長い前史があるんです。副手から助手、そして専任講師になり、文理で授業を担当するようになった1991年度から何年間か悶々としてたんです。自分でこういう教育をしたいと思いつつも学生に伝わらない、試みることがうまく行かなくて、一人でから回りしていたのね。学生が今の世の中の動き、現実社会との接点を切り結んで、生き生きと研究活動に取り組めるようになるには、教師として何をしたらいいのかずっと思い悩んでいたんです。詳しいことは省略しますが、試行錯誤の果てにたどり着いたのがこのプロジェクトだったんですね。

     桜麗祭で

  ――桜麗祭では、今年も千人以上の方々がアンケートに答えてくれましたね。
 そうですね。会場の教室まで足を運び、展示作品を丹念に見て、作品への投票を兼ねたアンケート用紙に記入してくれる方々が、毎年こんなに沢山もおられることはほんとに励みになりますね。でも、最初の年(1994年度)は3日間で500人足らずでした。その後は、95年度が70096年度が80097年度から千人以上となって現在に至っているわけですが(最高は1997年度の1340名)、これは桜麗祭が多くの人々を集める学部祭として成長していることが反映しているのだろうと思います。桜麗祭がスタートした1993年度と今とを比較すると、イベントとしての充実度、にぎわいや華やかさなど、どれをとっても隔世の感がしますね。
 ただ、その一方で、ずっと関わり続けている者の眼には、運営が硬直化、形式化しつつあるようにも感じていて、その点がやや気がかりです。祭りというのは洋の東西を問わず、日常の秩序を打ち壊して再生させるところにこそ深意があると考えますし・・・・。  

     情熱の源は

  ――前に「自分たちはシラケ世代だ」と言われましたが、先生は情熱を持って取り組んでおられるように見えます。何がそのようにかきたてるのですか?
 やはりある種の希望なんでしょうね。ぼくの働きかけを受け止めてくれる学生たちがここにはいますし、文理学部も昔と比較すれば格段に良くなってきた。希望や期待をつないでくれるものを実感できることが、ぼくにとっての大きなエネルギーになってるのかもしれません。
 それから、やはり先ほど述べた母校に対する愛憎半ばする複雑な思いでしょうね。現状に対する不満は沢山あるけれど、「犬の遠吠え」(外在的な批判)をし続けてるだけでは何も変わりませんので、ぼくは、内在的に批判して改善に向けて努力する(有言実行)というスタンスを取っています。
 でも、いろいろ努力しても成果が反映されなかったり、希望の灯が消えてしまったらどうなるのか、という思いは絶えずついて回りますね。そう考えている教員はきっと多いんじゃないかなぁ・・・・。

     世紀転換点はイギリスで

  ――今度はこれからのことについておうかがいします。先生は1年間イギリスへ行かれるそうですが、イギリスではどのようなことをされるのでしょうか?  
  日大の海外派遣研究員として、20003月末から20013月末まで、家族と共にイギリスへ行って在外研究にあたることになりました。掲げている研究のテーマは、「世紀転換点におけるヨーロッパ大都市の比較都市社会学的研究―UrbanityGlobalizationLocalization―」というものなんですが、これをゼミのプロジェクトで磨きあげ、新しい都市社会調査法と位置づけている「集合的写真観察法」*15によって行おうと考えています。

            *15 後藤範章「集合的写真観察法−都市社会調査の新地平−」(『社会学論叢』137号、20003月)

     サリー大学社会調査研究所

 東京駅を基点にすると神奈川県の厚木あたりの位置になりますが、ロンドン中心部から南西約40キロのところにギルフォード(Guildford)という小さな都市があります。そこにあるサリー大学(Univ. of Surrey社会学科の社会調査研究所に客員研究員として受け入れてもらいます。
 その研究所では、質的な調査データをコンピュータを使って分析するという大変面白いことをやっていて、「集合的写真観察法」を都市社会調査の方法として確立させるには、最もふさわしい研究機関であると思ったのです。アプライ(受け入れの要請)をする時、知り合いもいないしつてもなかったのでどうなるか心配でしたが、意外なほどあっさり引き受けてもらえました。ゼミで行っているプロジェクトのことをかなり詳しく説明したのが良かったのかも知れません。

     ユーロスターと三都物語

  それから、もう一つ、「ユーロトンネル開通に伴うイギリスとヨーロッパ大陸との“実質的地続き化”の社会学的効果に関する研究」というテーマも構想しています。ユーロトンネルがドーバー海峡の地底を通っていて、ユーロスターが走ってますでしょ。あれって、イギリスをヨーロッパ大陸と実質的に地続き状態にしてしまうことを意味するんですね。で、ぼくは鉄道交通に絡んだ社会学的インパクト研究もやっていますので、この点にも関心があるんです。
  第一のテーマとつなげて言うと、特にユーロスターで直接結ばれているロンドン、パリ、ブリュッセルという三つの大都市をフィールドに、「世紀末現象」と「新世紀現象」を写真にばしばし収めて、実証データと突き合わせながら分析・解釈していく。そしてその中から都市性を抽出して、「東京」と比較してみる。まあ、言ってみれば、“写真で語る:東京・ロンドン・パリ・ブリュッセルの比較社会学”、ってとこかな。

      10年は続けたい

  ――ということは、イギリスから帰国されてからもプロジェクトは続けて行かれるのですね?
 続けたいとは思っていますが、ただこれは体力勝負の部分が結構あって、正直なところ、もうかなりしんどいんです。精神的にも肉体的にも相当タフでないとできない。だから50歳を過ぎても60歳になっても続けられるかというと、多分無理だと思ってます。だけど、中途半端なところで止めてしまうのも惜しい。ゼミの卒業生とも、成果をきちんと形にして残すことを約束しているし。当面は、10年間を目標にやっていこうと考えています。  
  世紀転換期の、世紀末と新世紀を共に含んだ10年間の、「東京」の社会変容を社会学的に解き明かす。少なくてもその素材となる作品集を、ゼミの卒業生、現役生とぼくとで力を出し合ってまとめて、出版するところまでは是が非でも持っていきたい。それも狭い社会学の世界ではなく、広く市民社会に向けて発表し、“日大”印の成果として世に問うてみたい、と切望しています。

      励ましの声

 これまでも、実は随分といろんなところでこの試みについて話をして*16、狭い世界での評価は得ているのですが、今年全国紙で大きく紹介*17されてからは、このプロジェクトを介しての交流の輪がぐっと広がったんですね。大新聞の社会的な影響力の大きさを改めて知ったわけですが、その一つにプロの写真家・柿沼隆さんとの交流があげられます。
 柿沼さんの写真展の案内をいただいて、ゼミ生もぼくも、19994月に銀座で開かれた「TOKYO世紀末展 Part1」を見たんです(その後、全国各地を巡回)。写真作品の一点一点が見る者を差し貫く迫真力や物語の構成力を持っていて、同じ「東京」をモチーフとしていながら、ぼくらの写真とは天と地ほどの違いがあるんですね。
 その柿沼さんが、今年の桜麗祭での展示発表を見に来られて、その後お手紙を下さったんです。そこには、「写真が弱いのが残念ですが、学生さん達が熱心になってこれだけ多様な『東京写真』を取ってくるのは大変なことです。文章にも面白みを多々感じました。これは10年ぐらい続けたら重要な意味を持つすごい記録になると思います」、とありました。
 こうした励ましを力に変えて、良い成果をゼミ生や卒業生たちと一緒に作りあげていくつもりです。

            *16 社会学や民俗学系の学会や研究会、国や自治体や民間団体の研修会、講演会、談話会など。
              *17 1999年1月29日付「読売新聞」朝刊・生活面の記事「写真が語る『現代の風景』―生活の変化映し出す」

     人間は死ぬまで変わっていく

  ――最後に、学生へのメッセージを一言お願いします。
 そうですね。やはり、社会学的な人間観かな。
 「三つ子の魂百まで」ということわざがありますね。幼い頃に形成された性格は、老人になっても変わらない、という意味です。多くの人に信じられているのでしょうが、社会学ではそうは考えない。社会化論や準拠集団論を持ち出すまでもなく、社会学は人間を死ぬまで変わり得る存在と捉える。もっと積極的に言えば、変えようと思えばいくらでも変えられる・・・・。
 「自分の性格が大嫌い」「自分には能力がない」などと悩んでいる人も少なくないでしょうが、「でもこればかりは変えられないから、どうしようもない」と諦めてしまっていませんか。しかし、そんなことは決してないんです。変えようと努力すれば、いくらでも変えられるんです。大切なことは、「夢と希望の力」を信じて、変える努力をすること。
 社会を知る(社会学を学ぶ)ということは、社会や自分のイヤなところを変えていく(変革していく)こと
につながっていくんです。ぼくは、日本社会も、日大も、そして私たち一人一人も、変わっていく(変えられる)はずだ、と信じて疑いません。
  未来は、私たちに等しく開かれているのです。